シャマシュは去った。
しかし、ネルガルはまだ洞窟を出る訳にはいかない。イナンナの儀式が終わっていないのだ。
(遅いな・・・。)
復活の儀式には何人たりとも入る事は許されていない。
その掟の根拠は分からないが、秘術を知る“七惑星の巫女”の言葉には従うほかないのである。
洞窟の壁にもたれかかり、ネルガルはまどろんだ。
ラハムは混乱していた。
自分とラフムは、グリヌフスの生まれだという。“奈落の門”が町を滅ぼした後も生き延びた人間だったのだ。
グリヌフスでは、両親から違う名で呼ばれていた事だろう。それを今、思い出す事は出来ない。自分の記憶は、“奈落の門”=テームによって書き換えられている。
今、グリヌフスは廃墟だ。いくら故郷だと分かっていても、帰還する事などできない。
やはりラハムとして人生を送るしか道は無いのだ。肉体は過去にグリヌフスで生きていた名も知らぬ少年のものである。しかし、心はヌディンムトの弟子でありラフムの弟でしかない。
あらためて生まれた時からの相棒であったと分かった兄のラフムは、彼の前で横たわり、目を閉じている。
ラハムは、ふと思い出した。
師への最後の問いだ。
(師匠・・・)
彼はヌディンムトに呼びかけようとしたが、声が出ない。
(なんて臆病なんだ・・・)
2年間の戦いで自分は強くなったと思っていた。だが、何も変わっちゃいない。師匠に質問する事すら躊躇してしまうのだ。
だが、それを見透かしたかのようにヌディンムトの方から声が掛かった。
「ラハム、お前の訊きたい事は分かっておるぞ。」
ラハムの問いたい事は、ヌディンムトが“イリアステームの杖”で結集した記憶に含まれていた。
「お前の問いは、『我々はなぜこの戦いに命を懸けねばならないか』だな?」
「そ、そうです!」ラハムは堰を切ったように話し始めた。「エンリルは、身を犠牲にしてキシャルを殺しました。その瞬間を見たラフムも、死を感じました。
そのときから、ラフムは何かを≪滅ぼす≫為に、命を懸けてでも戦う覚悟なのです。(※1)
その戦いは賞金稼ぎのものではありません。
なぜです! なぜ、私たちは命を捨てねばならないのです!
そこまでの運命をなぜ背負っているのですか?」
ラハムは、ついに問いたい事を言い切り、身体の震えを止める為に首をすくめた。
ヌディンムトは、弟子に向かってゆっくりと話し始めた。
「それを知るにはな、ラハムよ・・・。古代魔法王朝が滅びた時代からさらに千年以上遡り、魔法文明創成期の出来事を推測する必要があるのだ。」
「そんな昔の事を・・・?」
「命を捨ててでも何かを成そうとする意志は、地上の動物の中で人類だけが持つ特性だからだ。
つまりそれは、野生動物の一員だったかつての人類が、知性を身に付け、文明を興した時代に授かった特別な意思なのじゃ。」
「でも、そんな事、分かるのですか?」
「その頃の出来事を側で見ていた者どもがおる。」ヌディンムトは少し口元に笑みを浮かべたようにみえた。
「それは、エルフ達だ。彼らは人類が洞窟に住んでおったころから、すでに高度な文明を持っておった。
わしは“空中庭園”を訪問した時、エルフに人間の古代文明はどのようにして始まったかを尋ねた。
だが、エルフ達は人間の魔法文明の創成を多く語ろうとしない。そのことは人間が伝えるべきだというばかりなのだ。しかし、人類の歴史はそれを伝えておらぬ。
わしは質問の仕方を変え、いろいろな角度からその時代の事を聞き出そうとしたのだが、やはり肝心なところを話そうとせぬ。
エルフ達がもたらした情報ではっきりしていたのは、魔法文明の基礎となるルヒューと呼ばれる魔力は、ディンギルと呼ばれる神の一族が人間に授けたものだそうだ。その魔力は遺伝し、代々魔法民族が“七惑星魔法”として受け継いでいったのだ。」
ディンギル――まどろみの中でネルガルは思い出した。その言葉が自分の記憶にもあった事を。そしてその響きは、なぜか心が締め付けられるような、うしろめたさを感じる言葉である事を。(※2)
「それについてエルフは、『ディンギルはルヒューを伝授する種族として、エルフという選択肢もあったにもかかわらず、人類を選んだ』という事をしきりに話すのだ。
それはどういう意味なのか、わしは考えた。
人類とエルフの決定的な違い――それは、寿命だ。人間は寿命を持ち、50年もすればすべて入れ替わる程、変化の激しい種族だ。それに対して、人間の血が混じらぬ純粋なエルフの寿命は、永遠だ。
一見、人間の方がエルフより劣っているように見える。だが、それは間違いじゃ。
世代の交代が無いエルフ達は永遠に生き続けるが、成せない事は永久に成せないし、勝てない相手には永遠に勝てない。
巨大な、今は太刀打ちできない相手に勝つ方法――それは、“進歩”だ。
人類はエルフとは違う。世代をつなぎ、知識を伝達し、100年、1000年を経て進歩を重ね続ければ、とんでもない発明、発見を見出し、勝てない相手にも勝てるように自らを変化させる事ができるのだ。
ディンギルはその力に懸けたのだ。
ディンギルが成したかった事、それは神話にある一節、『この邪悪なるもの滅ぼさん』だと思う。
分かるかのう、わしらが命を捨ててでも戦おうと感じる相手は、常にこの地上にはびこる“邪悪なるもの”――ここにおる魔人のような――に対してだ。わしらは、それを命を捨ててでも滅ぼそうとする。
魔法民族は、ディンギルにルヒューと共にその意思を与えられたのだ。
そして、わしらは古代魔法民族の記憶をテームから受け継いでいる。
つまり、そのディンギルの意思――自らの命を顧みず、正義を志向する意思――が、テームによって我々の記憶に植え付けられておるのだ。
だから、エンリルは自らを犠牲にし、キシャルを倒した。
ラフムが感じた≪滅ぼすべきもの≫は、“邪悪なるもの”であったのじゃよ・・・。」
「でも、矛盾してるよ。」フーレイが割り込んだ。「兄さん達は、統一された記憶を持って生まれきたんじゃないの。キシャルだってマルドックだって同じでしょ! なのに、戦っているじゃない! 殺し合っているじゃない! おかしいじゃないのよ!」
「確かにおかしい。」ヌディンムトは咳払いをした。「それはな、“邪悪なるもの”は、人の立場や見る方向によって、変化するからだ。
わしらはテームを“邪悪なるもの”と判断しておる。それは、大量殺戮を許す事ができないからだ。しかし、マルドックはそう判断しなかった。魔法文明の再興は人類に有益なものと考えたのじゃ。この差により対峙する事になったのだよ。」
「そんな・・・」フーレイは絶句した。
「ありがとうございます。師匠。」ラハムである。「師匠のおっしゃった『“記憶の底”に従え』の意味がようやく理解できました。」
「ラハム、お前は一人前だ。」ヌディンムトは優しく声を掛けた。
「でも師匠、なぜ私たちの記憶にディンギルの意思ははっきりと示されていないのでしょうか。ディンギルの意味すらも伝えられていません。」
その問いは、ヌディンムトの表情を曇らせた。