ネルガルは立ち上がり、大剣を背負った。
「どうしたの?」フーレイが訊ねた。
ネルガルはその問いには答えなかった。無言で身支度を続けている。
「今からアリア-サンに旅立って、何日かかると思っておるのだ。」と、ヌディンムトが声をかけた。
「ここまで乗ってきた大鷹を空に待たせている。それで行けばすぐだぜ。」
「それでも丸1日はかかるだろう。その頃には全て終わっておる。無駄じゃよ。」
「行くんだよ!」ネルガルはヌディンムトに歩み寄り、肩を掴んだ。「このままじゃ、マルドックの記憶だけがテームに運ばれるんだろ!」
それは、テームに肯定的な考えを持つマルドックの記憶だけで、テームが“永遠の王国”を創るかどうかの判断がなされる可能性がある、という危惧である。
ネルガルは、それをどうしても許す事ができなかった。その理由をはっきりと言葉にできる訳ではない。自分の記憶の底にある何かが、その行動を求めているのだ。
「ネルガル。」振り向くと、そこにはシャマシュが立っていた。「悪いが、それは私の仕事だ。」
「そんな身体で何を言うのだ。」ネルガルは苦笑いしながら言った。「それに、マルドックの討伐はおれの役目だぜ。」
「うむ。その通り。おまえにカネを払ったのはこの私だ。賞金稼ぎの雇い主は、返金を求めなければ無条件で契約を解除する権利を持つ事は知っておるな。
ネルガルよ、お前の仕事は中止だ。契約の解除を命じる。」
「断る!」ネルガルは叫んだ。「これはおれの役目だよ! あんた、そんな身体でマルドックと戦えるわけが無いだろう!」
「ネルガル、お前がこの世に未練が無いのは知っている。」
暗がりの中でもシャマシュの視線がネルガルの目を見つめているのがよく分かる。ネルガルの反論を遮るように、シャマシュは言葉を続けた。
「死を選ぶのは簡単だ。だがな、たった一人の為だけに残りの人生を捧げるのも、この世に残る十分な理由だ。」
シャマシュは視線をネルガルの左腕に落とした。ネルガルがその視線を追うと、そこには、彼の肘をしっかりと掴んだフーレイの両手があった。
その表情は分からない。彼女は顏を伏せている。
ネルガルは理解した。フーレイはまさにこのとき――封じられた記憶が彼に死を選択させようとするとき――の為に、ここまで従ってきたのだ。
ネルガルは、その手を振りほどく事ができなかった。
一刻の後、ヌディンムトは“イリアステームの杖”をシャマシュに向け、呪文を唱えていた。
“記憶の魔法”である。これにより、シャマシュは大鷹――カル・サーデュ――を操る方法を知り、アリア-サンまで飛ぶ事ができる。
そして、ヌディンムトは“杖”をシャマシュに託した。少しでも戦いを有利にするための配慮であった。
シャマシュは「必ず結果は届ける」と言ったが、「帰ってくる」とは言わなかった。
「さっきも言ったが、今から行っても間に合わぬ。この戦いはマルドックの勝利だ。それでも行くのか、シャマシュよ。」
身支度を終えたシャマシュは顔を上げた。ヌディンムトが見た彼の最後の笑顔であった。
「ヌディンムト、忘れたか。あそこには、まだ一人残っている事を。」
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シャマシュの語る忘れられた人物、それはアリア-サンのネポである。
ネポはアリア-サンの自室の暗がりの中で、故郷に帰る‘時’――つまり、“奈落の門”の出現――を静かに待っていたのである。
彼は、遠い過去に思いを巡らせていた。それは、幼少期のヌディンムト、シャマシュ、マルドックと共に山の洞穴で暮らしていた時代・・・。
3人より7歳ほど年長だったネポは、彼らの親代わりだった。金物細工を町で売り、何とか生計を立てていた。
彼らは成長するにつれ、自分たちの出生を強く意識ようになっていく。それを知る為にすぐにでも山を下りたいと語り合っていた。
3人が10歳になった頃、それは現実となる。彼らはネポの元を離れ、旅立っていった。
ネポ一人だけは山に残った。彼とて、出生の謎を欲しなかったわけではない。彼はそれを外部に求めず、内部――記憶の底に求めたのである。
何年も洞穴で記憶と向き合い、自分達はいずれ故郷に帰るべき存在であることを漠然と感じるようになっていた。しかし、その故郷とは何であるかを知るのはそれから約30年の後、幼いエンリルの出現と、“奈落の門”が近郊のキルスを滅ぼした年が一致したときである。
そのときに初めて、我々の出生は“門”と関係し、最終的に帰る場所はそこであると理解した。
ネポはエンリルと共に山を下り、“奈落の門”の噂を頼りに町を転々とした。最終的にアリア-サンに落ち着いたのは、次に“門”が出現するのはここであると確信したからである。(※1)
しかし、アリア-サンにもう一人、照準を定めた者がいた。
マルドックである。
50年前、袂を分かった者たちが最終的に行き着く場所は同じであった。
しかし、長い年月を経て、二人の関係は変貌を遂げていた。ネポの記憶は、マルドックの行いを否定したのだ。はっきりとした理由は説明できないが、自分の目的のために手段を選ばないマルドックを許すことはできなかったのである。
最後の弟子であるエンリルは、記憶の底にある意思に押されるように、マルドックの手先であるキシャルと共に死んだ。
ネポは、次に礎になるのは自分であると考えていた。ただ、マルドックと正面から戦って勝てる見込みはない。
彼は来るべき決着の日の為に、鎖を編んだ籠手を製作した。その籠手は、何かを掴むと指の先端から鋭い鋼鉄製の爪が生え、掴んだ相手にめり込む仕掛けになっている。
ネポはその籠手を即効性の毒を収めた瓶につけ込んだ。
この毒はネポの体内に入っても効果は無い。25年前に山を下りた時から、このような戦いに備え、致死量より少しだけ少ない量の毒を日々服し、身体を慣らしてきたのだ。
その為に視力を失ったが、それでよいと考えていた。盲目の老人なら、敵は油断するだろう。
勝負は一瞬である。その油断を突けば、刺し違えもあり得る。ネポにとってはそれが勝利であった。
『来たかの・・・』
遠くから伝わるかすかな地面の振動が、小さな馬と、それが引く幌馬車の来訪を告げていた。
目視で確認すれば、それは行商人だろう。
ただ、幌馬車の車輪の軽い振動は、荷がほとんど載っていない事を示していた。それに、護衛も付けずにアリア-サンまでやってくる行商人とは、いったい何者か。
ネポは立ち上がり、十分に毒をしみこませた籠手を左手に装着した。