小説「七惑星の記憶」
第二章 空中庭園
(1)
暗い夜、小雨に濡れた街道を一人の男が早足で歩いていた。男は赤い甲冑を身に付け、背中に大剣を背負っている。
男の前方の道端にボロ布の塊のようなものがある。よく見るとそれは老いぼれた物乞いだった。
男は、立ち止まって銅貨を数枚投げてやった。銅貨の転がる音が響くと、ボロ布からやせた手が出てきた。その手に持った木の枝のようなものが数回振られた。木の枝には鈴が付いていたが錆びていて音は出なかった。この老人なりの感謝の合図なのだろう。元々は大道芸人か祈祷師だったのかもしれないが、今はその区別さえできない。
男は無言でその場を立ち去り、再び早足で歩き始めた。
「けっ、本降りになってきやがった。」
雨足が強くなってきたことなど、実はたいしたことではない。男が苛立っているのは、あの物乞いに将来の自分の姿を重ねてしまったからだ。
男は名をネルガルという。
かつては賞金稼ぎギルドに所属していた。もう10年も前の話だ。その頃、ネルガルは持ち前の瞬発力を駆使し、どんな討伐も瞬く間に成功させていた。異例の早さで出世した事から、“百年に一人の男”の異名を持った事もある。
今思えば、これまでの人生の中で最も輝いていたときだった気がする。
ネルガルは今年、35歳になる。長年の厳しい生活、戦いの日々の中で身体の節々は痛み、昔に比べ瞬発力も鈍った。
「こんなはずではなかった。」
認めたくない事だったが、最近は後悔がすぐ口に出るようになった。プライドは高い為、人に会うときは虚勢を張っている。しかし、独りになり、自分自身に向き合ったとき、嘘はつけない。
10年前、ネルガルは賞金稼ぎギルドを脱退し、独立する決意をした。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いがあったし、何より依頼主からの報酬の半分がギルドの取り分になるという掟が気に入らなかったのだ。
ギルドの脱退は自由である。ただ、一度脱退すると二度と復帰できないだけだ。
脱退して2、3年の間は、顔見知りの商人、領主などからの仕事を引き受けることで、以前より豊かな生活をおくることができた。依頼主の方もギルドの取り分がない為に、ネルガルへの報酬は格安で済んだのだ。
しかし時代は変わるもの。商人は事業の失敗で姿をくらまし、領主は戦争や権力闘争に敗れたりして、仕事は徐々に減っていった。
そして、新しい依頼主からの仕事はほとんど来ない。
いくら腕が良くても、賞金稼ぎは一般的に流れ者や無宿人とみなされている。そんな者達に依頼をする場合、個人的な付き合いは避けたいのが心情だ。法外なカネを請求されるかも知れないし、裏切られても訴えるところが無い。
だから、ギルドを利用するのだ。ギルドに依頼すれば、依頼主の名は実際に働く賞金稼ぎには伏せられる。また、仕事を請け負った賞金稼ぎが裏切りを働いた場合、その者は逆にギルドの賞金首となり、地の果てまでも追われる運命にある。賞金稼ぎがギルドの掟に縛られている事が、依頼主にとっては担保となっているのだ。
そのような依頼主の心情に若いネルガルは気付いていなかった。自らを鍛え、強くなればなるほどカネになると信じていたのだ。ネルガルは生活に困窮して初めて、「黒トカゲ」の紋章の本当の価値に気付いた。
そういった理由で、ここ4、5年は賞金稼ぎの仕事は少なく、もっぱら傭兵稼業で生計を立てていた。しかし常に傭兵団を必要とするような戦争がある訳はなく、生活は困窮していた。いずれ身体が動かなくなり、剣を手放したら、あの物乞いのようにボロ布の中で最期を迎えるのではないか、という漠然とした不安が頭をよぎる事も多い。
ひと月ほど前、そんなネルガルに久しぶりの依頼があった。
ネルガルは喜んだが、それには、奇妙な条件が付いていた。
『依頼主に直接会い、幼年期の記憶をありのままに話す事。』という一文が入っていたのだ。
――自分の幼年期。これもまた、ネルガルにとって苦い想い出を伴う。
ネルガルの最も古い記憶は、父親との二人暮らしをしていた頃の事だ。ネルガルは父と二人きりで暗い森の中の小屋でひっそりと暮らしていた。当時のネルガルは、父の職業を知らなかった。ただ、自給自足の生活の為、獣を狩ったり、魚を獲ったりしていた事を覚えている。
ネルガルが10歳頃だったろうか。ある日、父は幼子を家に連れてきた。ネルガルの妹であるという。遊び相手のいなかったネルガルは素直に喜んだ。しばらくの間は3人の生活は楽しいものであった。
しかし、数年が経ち、ネルガルが大人への階段を上り始めた頃、これまで曖昧にしていた疑問が心に具現化してきた。
その頃、子とは母の腹から生まれるものであるとネルガルは知った。しかし、自分には、母がいない。果たして、妹と自分とは血の繋がりがあるのだろうか。その疑問は、日々膨らんでいった。自分は父の子であるのかどうか、というところまで。
悩んだ末、ついにネルガルは父にその疑問をぶつけた。父は、表情を変えなかった。その質問がいずれ来ることを分かっていたかのように。
父は、いともあっさりと、この家族に血の繋がりは一切無いことを認めたのだ。ネルガルは孤児院から引き取り、妹は父の知り合いから譲り受けたという。
その目的は父の職業に関係していた。それは、天候の予測をしたり、祭事で火や風を操る役目を請け負う、“精霊使い”と呼ばれる職業だった。自分や妹は跡継ぎにする為に育てているというのだ。
ネルガルはその晩、家を出た。それ以来、一度も戻っていない。
今でもなぜそのような行動を取ったのかよく分からない。父の言葉で心に傷を受けたわけではない。結果は予想していたことだし、父が負い目を見せることも無く全てを話してくれたことで、ネルガルの父への信頼は増したと思えるほどだ。
父は何も言わずに家出した自分の事を恩知らずと思っているに違いない。育ててくれた事に対して礼の一つも言い残さなかった事が心残りだった。
ではあのとき、なぜ何も言わずに家出するという行動を取ったのだろう。あえて理由を付けるとすれば、父の後を継ぐという事に耐えられない違和感があった、としかいえない。
以前のネルガルなら、そんな話を赤の他人に聞かせる事は断っただろう。しかし、生活に困窮した今は、そうも言っていられなかった。きっと依頼主は吟遊詩人か何かで、これからの冒険談に味付けするつもりなのだろう、などと考えていた。
とにかくそういう訳で、ネルガルはこのリドンの町にやってきたのだ。
依頼主から、落ち合う場所はリドンの町外れの宿屋が指定されていた。その宿屋は街道にひっそりと立っていた。ネルガルは店の名前を確認し、入り口の扉を開けた。
入った所は小さな酒場になっており、カウンターで禿げ頭の店員がグラスを拭いていた。店員はネルガルの姿を見たが、無愛想な一瞥を与えただけで再びグラスに目線を戻した。
店を見渡すと、4つしかないテーブルの一つに、客は一人だけだった。ネルガルはそのテーブルに向かった。
「ネルガルだ。あんたが依頼主かい?」
灰色のローブを身にまとったその男は応えた。
「いかにも。わしがヌディンムトだ。」
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